三丁目の夕日で茶川がなりわいの一部とする少年雑誌の冒険小説
1958年から週間少年雑誌が登場しました。
その頃は、紙芝居屋が全国に五万人を数えていました。
週間単位のテレビの普及とともに、週刊誌が次々と出され、
1959年には、講談社から少年マガジンが、小学館から少年サンデーが、子供向けの週刊誌として登場しました。
しかし、当初は、子供のこづかいで買える価格ではなく、経営的に安定しない。
また、赤本において、すでにまとまったストーリーのマンガが登場していたにもかかわらず、この週刊マンガ雑誌において、紙芝居的な連載形式へ逆行するのです。
すなわち、それは週10枚程度の話を、人気に応じて無限に続けなければならないものであり、逆に人気が無くなればすぐに打ち切りとなる仕方でした。
だから茶川の身分も作家という立場ではありませんでした。
茶川が出版社に前借をを申し出て断られるシーンがありますが、
この当時の少年雑誌の作者達は身分が不安定であったことがわかります。
純文学を目指すこの映画の茶川などのような作家達が子供の夢の世界を書いている状況だったのです。
手塚治も人気漫画家でありましたから、この種の週間雑誌にはそんなに書いていません。
この後の少年漫画雑誌の隆盛はまだわからない時代でもあったのです。
それはともかく団塊世代は週間漫画雑誌で育っていくのです。
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